2015年09月28日

R.I.P....Wilton Felder


クルセイダーズの来日公演で聴けたクールで堂々たるサックスの音色。
でもいつか
ベーシストとしてステージでプレイする姿をみたかった。

どっしりとしながらも重くなり過ぎないゴリっとしたベース音。
その演奏姿を目の前でみることは叶わなくなった。

David T. Walkerソロ4作目『David T. Walker』の
至るところから聴こえてくる黒々としたベースライン。
「Never Can Say Goodbye」のベースを今日は噛み締めます。

ご冥福をお祈りします。
May his soul rest in peace, Mr. Wilton Felder



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2015年09月08日

さようなら、鳴海寛さん

ギタリスト鳴海寛さんが亡くなった。

その存在を知ったきっかけは、
山下達郎のライヴアルバム『JOY』で聴けるギターだった。
David T. Walkerが乗り移ったかのようなプレイスタイルに
心底衝撃を受けた。

鳴海さんのことをもっと知りたいと思った。
でも、しばらくは満足のいく情報は得られなかった。
そんな折り、
鳴海さんのウェブサイトが2004年に突如として立ち上がった。
いまはもう閉じられているそのサイトで、
自主制作のCDが販売されているのを知り、
すぐさま、
David T. Walkerのファンであることを自己紹介がてらメッセージとして添え、
購入手続きをした。

CDはすぐに送られてきた。
封をあけると、CDのほかに、
David Tへの思いを綴った、直筆の手紙が同封されていた。
さりげなく淡々とした筆致ではあったものの、
David T. Walkerへの敬愛の思いが行間にあふれていた。
こんなことを人に伝えるのははじめてのことだ、とも記されていた。

すぐに鳴海さんに連絡し、
会って話を聞かせていただくことを懇願した。

鳴海さん地元のうなぎ屋で、
David Tのことを「先生」と呼ぶ鳴海さんと3時間超、
David Tへの思いや音楽観を、
存分に聞かせてもらった話が以下のURLの内容だ。
http://homepage2.nifty.com/ueb/davidt/sft08_01.html

その後、2007年にDavid Tの来日公演を鳴海さんと観に行き、
終演後、一緒に楽屋でDavid Tに挨拶したとき、
短い時間ではあったけど、
子どものように目を輝かせ、
先生を前に緊張しながらも興奮を隠せずにいた鳴海さんの姿が
とても印象的だった。

あるいは、
山川恵津子さんとのデュオユニット「東北新幹線」唯一のアルバム
『THRU TRAFFIC』に鳴海さんが忍ばせた、
David T. Walkerファンだからこそわかりあえる
オマージュの幾つかをそっと言い当てたときの、
テンション高く僕を見つめる鳴海さんの満面の笑みも、
忘れることのできない表情だ。

そうかと思えば、3年ほどまえ、
David Tのことで心の中に引っ掛かっていてことがようやくわかったと、
鳴海さんから夜中に突然電話がかかってきて長電話をしたことも、
鳴海さんらしい微笑ましい思い出だと勝手に思っている。

ギタリストとしてだけでなく
鍵盤奏者、ヴォーカリスト、作曲家、アレンジャーとして、
音楽を多面的に形作る非凡な才覚とセンス。
先日行われた、近しい関係者による「鳴海さんを送る会」で聞けた、
音楽関係者やご友人ほか皆さんによる鳴海さんへの言葉一つ一つが、
天才肌で繊細な感性の「音楽家」であることを物語ってもいた。

体調が良くないことは聞いてたけど、
ようやく復調の兆しもみえ、またこれから、というときの訃報。
本当に残念でなりません。

心よりご冥福をお祈りします。


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2014年11月21日

安らかに、伊藤八十八さん

中学生の頃、浴びるように聴いた
ザ・スクエアやナニワ・エキスプレスといった
名だたる日本のジャズ&フュージョン作品に
制作者として関わっていたのを知ったのは、
随分あとになってから。

伊藤八十八さん。

David T. Walkerの2010年作『For All Time』に
David Tとともに共同プロデューサーとして関わられたことがきっかけで
取材としてお会いしたのが最初の出会い。
その後もライヴ会場ですれ違ったときには、
いつもニコリと微笑んでくれました。

最後にお会いしたのは、
ご自身が主催した、2013年夏の軽井沢ジャズフェスティバル。
マリーナ・ショウ率いる、
デヴィッド・T、チャック・レイニー、ハービー・メイソン、
ラリー・ナッシュによるドリームチームの終演後、
満面の笑みで彼らの素晴らしいパフォーマンスを讃えていた姿が
今でも目に焼き付いてます。

日本のジャズシーンを支えた、と一言では片付けられない、
あらたな道を切り開いた足跡と功績の裏にあるのは、
きっと僕らの想像も及ばない探究心と開拓心。
やわらかくも鋭い語り口の行間から、
確かな審美眼が顔を覗かせていました。

心よりご冥福をお祈りします。

http://homepage2.nifty.com/ueb/davidt/sft15_01.html


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2013年09月23日

グレーの居心地

Michael Gately / Gately's Cafe (1972)

MichaelGately_GatelysCafe_200.jpg

イタリア在住の日本人に
原稿執筆の仕事を依頼したことがある。
かれこれもう10数年前のこと。
イタリアならではの季節の行事を
現地からのレポートのような形で紹介してもらうという
定期連載の依頼だった。

メールであれこれやりとりする中で、
イタリアには「バール」とか「バル」と呼ばれる
カフェとバーの中間のような店が数多くあることを教わった。
最近でこそ日本でも
そんな意匠を掲げる店が出始めてきたけれど、
当時はまだ少数派。
昼はカフェ、夜は酒飲み処となる店はあるにはあったが、
軒数が比較にならないほどイタリアにはあるらしく、
文化や習慣の違いを感じたものだった。

カフェとバー。
というと思い出すのが、
マイケル・ゲイトリーが72年にリリースしたソロアルバム
『Gately's Cafe』だ。

ゲートフォールド仕様のダブルジャケットを開くと、
アルバムタイトルを模したと思われる店内風景が描かれている。
数々のボトルに、バーカウンター。
ひげ面に、くわえ煙草。
無愛想に酒を注ぎ、自らも一杯ひっかけながら、
明日の天気と次のBGMを考えるバーテンダー風の男。
そんな物語の一コマを演じる男こそアルバムの主役、
マイケル・ゲイトリーだ。

そう、ここはGately's Cafe。
バーではなくカフェなのだ。
見た目はバーだが、昼はカフェなのだろうかなどと、
タイトルとアートワークのアンバランスな感触を抱きつつ、
肝心の音はというと、
これまた不思議な味わいがある。

以前からソングライターコンビでもあった
盟友ロバート・ジョンと書き分けた楽曲たちを、
旧知の仲でもあるアル・クーパーがプロデュース。
巨漢の風体とは裏腹に、
優しく柔らかなゲイトリーの歌声を重ね録り、
アコースティックなテイストと
弦楽器のアンサンブルをしとやかに織り交ぜるアレンジで
フォーキーで暖かみのあるスウィートな演出を施しつつも、
どこか刺々しく、
陰鬱でビターな味わいが香る音空間は、
ゲイトリーの繊細な肌触りを十二分に引き出す仕事ぶり。
トラックダウンはニューヨークだが
録音場所はロンドンという点も、
暖色と寒色が押し退きしあっている要因だと
深読みしたくなる。

その英国からは、
当時アル・クーパーが懇意にしていた
エルトン・ジョンのバックバンド兼ミュージシャン集団
フックフットの面々が参加。
贅肉を削ぎ落としたシンプルなリズムが、
聴き手のイマジネーションを刺激しながら
じわりと足跡を残していく。

その流れからか、
アル・クーパー作「The Piano Player's Gone」では、
フリーのギタリスト、ポール・コゾフが客演。
朴訥としたゲイトリーの歌声を
熱を持ったテイストで包み込むコゾフのギターは、
エッジの効いたブルージーさで、
楽曲の濃淡を瞬時に描きだす。

かと思えば、
同年、ウィスパーズがカヴァーしたメロウな一曲
「You're What's Been Missin' From My Life」で聴ける、
物悲しさと切なさを表情に出さない苦笑いのような佇まいや、
どっしりと鎮座するリズム隊を引き連れて高揚する
「Color All The World」のどこか安堵する趣きなど、
やわらかな心持ちによるメロウネスの雫をも
聴き手の器に静かにしたためていく。

緊迫と緩和が反復し合う、
気がつくと聴き入ってしまう不思議な説得力を残す楽曲は、
ハートウォームなゲイトリーの風合いに交じって、
裏方から表舞台への階段を歩もうとする主役が抱えた、
高揚や野心や不安や葛藤といったナイーヴな感情が、
ポップな姿を纏おうとしながらも
意図せずはみ出し行き来しているかのようにも映る。
あるときはカフェであり、あるときはバーにもなる
程よい緩急のメリハリでゆるやかに紡がれる物語は、
スウィートでありビター。
白でも黒でもないグレーな佇まいは、
東海岸のミュージシャンを揃え輪郭を研ぎ洗練を加味した
ソロ2作目となる次作『Gately: Still 'Round』でも
変わることなく引き継がれる。
どちらともいえず、
答えを急ぎ過ぎないことを良しとする居心地のよさが
ここにはあるのだ。
 
アルバム中ジャケのバーカウンター。
その壁面に飾られた小さな看板にふと目がとまる。

 I AM NOT A FAST BARTENDER.
 I AM NOT A SLOW BARTENDER.
 I AM A HALF FAST BARTENDER.

ゲイトリー自身、
白黒つけるのはお好みではないようだ。


michaelgately_iamahalffast.jpg


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2013年07月15日

Merry Clayton / "Oh No, Not My Baby" (1972)

MerryClayton_OhNoNotMyBaby_200.jpg

60年代には
レイ・チャールズのバックシンガー隊レイレッツの一員として活躍、
1969年にローリング・ストーンズ「Gimme Shelter」への
ゲストヴォーカル参加で
一躍その名が知れ渡ることになったソウルシンガー、
メリー・クレイトン。

1970年には1stソロアルバム『Gimme Shelter』、
翌年には2ndソロ作『Merry Clayton』、
75年には3rd作『Keep Your Eye On The Sparrow』を、
いずれもルー・アドラーが主宰する
オード・レコードからリリースするかたわら、
多くのアーティストとのセッションヴォーカルを務めた
実力派シンガーだ。

そのオード・レコードでレーベルメイトだったのが
かのキャロル・キング。
レーベルオーナーであるルー・アドラーの
セールス的な思惑もあったのだろうが、
キングのソロ作『つづれおり』への参加や、
クレイトンの2ndソロ作『Merry Clayton』には、
キングが3曲を提供するなど、
70年代初頭のこの時期、
音楽的交流を含め、
二人は近しい存在だった。

一方、
この二人のシンガーを
同じレーベルメイトとして支えていたギタリストが、
デヴィッド・T・ウォーカーだ。
タイプの異なる二人のシンガーに、
ギターという言語で呼応する姿は、
後追い世代の僕にとって、
ポップス、ロック、ジャズ、ソウルといった領域が交差し
魅力的な音楽の萌芽が見られたという時代に宿った
音楽の魔法とミラクルを
肌身で感じ得た好例のように思えた。

そんな魔法を色濃く感じたのが、
メリー・クレイトンがカヴァーした
「Oh No, Not My Baby」という一曲だ。

希代のソングライターコンビだった
ジェリー・ゴフィン&キャロル・キングのペンで
1964年、マキシン・ブラウンに提供し世に出たこの曲は、
その後、アレサ・フランクリンやロッド・スチュワート、
ダスティ・スプリングフィールド、リンダ・ロンシュタットなど、
多くのカヴァーをうんだ。

もちろん、
作者であるキャロル・キング本人による自演バージョンもあり、
1980年リリースの『Pearls』収録バージョンをはじめ、
2001年にリリースされた『Love Makes The World』では
セルフカヴァーとしてリアレンジし再録もされた。
特にこの『Love Makes The World』版は、
作者キング自身がピアノで弾き語りながら
元夫であり盟友チャールズ・ラーキーのベースのみを携え、
自身の歩みと照らし合わせるかのように、
思いを噛み締めつづり奏でる姿に
心がじわりと揺さぶられる名演だ。

多くのカヴァーバージョンの存在や、
作者自身もが繰り返し演じるということが、
はからずも楽曲の普遍的な素晴らしさを物語るし、
アーティストそれぞれが挑む
異なる解釈や趣きに出会う楽しみは、
至福の瞬間でもある。

だが、
そんな名演揃いのカヴァー曲の中でも
特別な素敵さを感じるのが、
1972年にリリースされた
メリー・クレイトンによるカヴァーだ。

例えばキャロル・キング作の「Natural Woman」を、
アレサ・フランクリンがうたった例のごとく、
白人作者のポピュラーソングに
力強さを伴ったソウルフィーリングの息吹を
あらたなに注ぐことでうまれる交差のミラクルを、
メリー・クレイトンという
売り出し中のシンガーで試したかったという思惑が
プロデューサーのルー・アドラーにはあったかもしれないと
勝手に深読みしたくなる思いもある。

でも、
ソロアルバムには収録されず、
シングル盤としてのみリリースされた
クレイトン版「Oh No, Not My Baby」には、
野太くハリのあるソウルフルなヴォーカルに、
コーラス参加した作者キャロル・キングの歌声が
背後に流れるストリングスの調べとともに
互いの視線を探り合うようなゴツゴツとした緊張感を
ゆるやかに溶かす美しいハーモニーで重なり合い、
他のバージョンでは味わえない、
繊細とおおらかな躍動が交差する
音楽力豊かなスペシャルな魔法が宿っていると
何度聴いてもそう感じてしまう。

ギターで参加したのは、
我らがデヴィッド・T・ウォーカー。
二人のシンガーに、
つかず離れずの呼吸でそっと寄り添い、
やわらかで力強い楽曲のフィーリングを
個性的なタッチで終始バックアップしていく。
満を持したかのように中盤、
言葉数少なく、
短い小節数ではあるものの、
思いのこもった生々しさに満ちた
渾身のソロプレイを、
ここぞとばかりに切り込んでくる姿に、
心はグッと鷲掴みにされる。

主役を見つめピアノを奏でうたうキャロル・キングと、
その調べに耳を傾け、
奔放ながらも丁寧な振る舞いで、
一体となってうたい奏でるメリー・クレイトン。
その二人のシンガーと、
ギターフレーズでにこやかに会話するデヴィッド・T。
このトライアングルの出会いを想像するだけで、
おもわず笑みがこぼれてしまう魔法が、
瞬時に目の前に姿をあらわにするのだ。

シングル盤としてのみ世に出たため、
これまでCD化の陽の目を見ずにいた
クレイトン版「Oh No, Not My Baby」は、
2013年7月、
ベスト盤に収録されるというかたちで
CD音源化された。
これほどうれしいニュースはない。

そして、もう一つ。

この楽曲の
レコーディング風景と思われるスタジオ映像が
キャロル・キングのオフィシャルYouTubeチャンネルに
ほんの一部だがひっそりとアップされている。

http://youtu.be/vhYGbWnpjh4

キャロル・キング自身が作者として
主役である歌い手メリー・クレイトンに
細やかなアドバイスを積み重ね仕上げていくという
音楽的育みの一コマを記録したこのクリップをみると、
"Oh No, Not My Baby
Oh No, Not My Sweet Baby"
と切なる願いに思いを馳せる歌世界と、
彼らがうんだ魔法の意味を
そしてミラクルの素敵さを
よりいっそう愛おしく
味わい深く感じることができるはずだ。

素敵な一曲です。


MerryClayton_BestOf_200.jpg
Merry Clayton / Best Of Merry Clayton (2013)


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2012年09月06日

冒険は続く

上原ひろみ / Move (2012)

HiromiUehara_Move_200.jpg

 その日が近づくとソワソワした気分になる。発売日をこれほど待ち望んだアルバムは久しぶりだ。

 アンソニー・ジャクソン、サイモン・フィリップスとのトリオ編成による前作『Voice』は、2011年にリリースされた新譜の中で最も繰り返し聴いた一枚だった。とにかく聴いた。感じた。聴くたびあらたな発見があった。なにより、均整がとれていながらも、時折りそのトライアングルからはみ出る勢いと迫力を伴った、臨場感溢れるアンサンブルが最高にスリリングだった。

 それから1年半。届けられた新作『Move』は、その延長線上にある第二章ともいえるもの。3人の呼吸と相性の良さを、ライヴツアーによって強固にした成果を携え、さらなる高みへと自らを鼓舞しながら紡いだチャレンジの軌跡がいたるところに溢れている。

 アルバムのはじまりとなる表題曲「Move」の冒頭に描かれる目覚まし時計のアラーム音を模したイントロから、深夜24時を告げる時報のような音色でエンディングを迎えるラスト曲「11:49PM」まで、収められた表情の異なる9つのバラエティは、本作のテーマであるという「一日の時間の流れとともに動き変化する感情の移り変わり」を見事に映し出す。

 楽曲単位での起承転結もそうだ。変拍子や転調を伴った変化の多い骨格の土台に、さらに細かく異なるリズムを織り込む多重構造によりうまれる、安定しない乱気流のようなうねり。その起伏が一つのリズムとテーマに昇華していく音の連なりに、絶えず変化する人間の複雑な感情と体温の高低が見て取れる。エンディングにフェードアウトはない。生演奏が基本となっているこそゆえの自然な形ではあるのだろう。だが、問答無用に進む「時間」という流れを前に、喜怒哀楽という言葉では収まり切れない細やかな心情の揺れにケリをつけ渡り合うことの潔さを、ハッキリと「終わり」を告げる態度で彼女たち3人は肯定しているのだとも思いたい。その姿はひらける視界への歓喜に満ちているようで実に清々しい。

 そんな感情の積み重ねを描いた9曲。内面に刻まれる感情の起伏を、瞬時にビートと化し複雑さを伴いながら連打するリズムの連なりに、ロック的8ビートのシンプルなシャッフルのリズムをさらりと織り込むサイモン・フィリップスの意地とユーモア溢れる意気込みと、ここぞとばかりにアグレッシヴに切れ込むアンソニー・ジャクソンの、流麗になり過ぎないゴツゴツとした風格漂う屋台骨の一音一音。そんな彼らに一歩も退かず、二人の呼吸を余すところなく受け入れ、そのチカラをバネに高いテンションで対話する上原ひろみのパフォーマンス。そこにあるのは、高揚や平穏、高鳴りや迷い、そして歓喜といった、さまざまに変化する心情と向き合いながら前に進む彼女たちの、ガッツ溢れる眼差しとスピリットだ。

 たった3人とは思えないほど、緊張感ほとばしるスリルとリリカルな佇まいが交差する厚みある音空間は、ジャズの語法や素養をベースにしながらも、プログレやジャズロックにクラシック、加えて彼女の日常に横たわり育まれた日本人的叙情性が親しみのある印象的な音階やパッセージとなってそっと忍ばせられてもいる高い即興性が特徴的。そこに映る佇まいは、それら音楽エッセンスを意図して多面的に取り込もうとした試みでは決してなく、むしろ、上原ひろみという音楽家に蓄積された音楽的血肉の正体が、強靭でしなやかな二人のリズム隊との出会いで後押しされ化学反応したことで、フィルターなしであらわになった証しだと受け取りたい。そしてそれは、音楽的ジャンルの意味性など軽く飛び越える度量が切り開く、よろこびに満ちたチャレンジの憧憬に映るのだ。

 アルバムタイトルでもあり、文字通り「動く」という意味のほかに「感動する」などさまざまな意味を持つ「Move」という言葉。敢えて言うならそこに「冒険」という解釈を付け加えたい。手探り状態で「声」を発し合った1年半前から、世界中を巡り互いの歩幅を確かめ合った「冒険」の日々。辿り着いたかけがえのない「宝物」がここにある。一日が終わり、そしてまた一日がはじまる。冒険が続く限り、宝物はいつでも待ち遠しく、きっとまた僕をソワソワさせる。



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2012年06月05日

R.I.P. Johnny


学生のときはじめて聴いたピンククラウドが、
トリオバンドの面白さを教えてくれた。

生で彼らを見ることができたのは
結局、解散ライヴとなった1994年の武道館。

なんといっても1990年の代々木競技場での
「Brain Massage」ライヴ。
繰り返し繰り返し見たビデオテープは、
見過ぎて見飽きてしばらく時間をおくと、
思い出したように見たくなるカッコよさ。

“うたのうたえるドラマー
 ドラムの叩ける歌い手”

盟友チャーをしてそう言わしめた、

しなやかで小気味良い唄心あふれるグルーヴが、

芯のある引き締まったスティックさばきが、

主役の歌声をやわらかく包むハーモニーが、

熱のこもったハートフルな歌声が、

数いる世界中のリズム強者からでなく受け取れたことを、
そして、
グルーヴのなんたるかを
能書きでなく肌身で感じることができたことを、

誇らしく思った。

こんなふうに音楽を表現できるミュージシャンは
きっとこの人だけなんだ。

ジョニー吉長さん

心よりご冥福をお祈りします。

♪ Pink Cloud "Only For Love"


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2012年02月23日

バンドサウンドへの挑戦

鈴木茂 / Band Wagon (1975)

ShigeruSuzuki_BandWagon_200.jpg

 この顔ジャケがカッコイイと思った。最初の出会いは1985年頃。何かの音楽雑誌に紹介されていたような記憶だ。高校生だった。どんな記事だったかもロクに覚えてない。ただこのジャケット写真の存在感が頭の片隅みに焼き付いた。鈴木茂という名前も、彼がギタリストだということも意識もしなかった。それから10年、90年代半ばに僕は再びこの顔ジャケに出会った。周囲では僕のような後追い世代が、はっぴいえんど〜ティン・パン・アレイの系譜を話題にしていた頃だ。

 バンドサウンドとは何か。思えばそんなことをずっと考えていた。

 1988年。19歳のとき僕は初めてバンドを組んだ。ボーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムというオーソドックスな5人組。それぞれの役割をきっちり果たすことができるこの5人という単位がロックバンドの理想的な形だと思った。ここで僕はバンドアンサンブルの楽しさを知った。だがバンドは2年間続いたあと呆気無く解散。次に組んだのはドラム、ベース、ギターの3楽器、ボーカルパートはギターの僕が兼任するというトリオバンドだった。

 なによりファンキーなロックを演りたかった。鍵盤楽器を排除し、ドラム、ベース、ギターという3つの楽器でソリッドでファンキーなテイストを形づくる。これが目標になった。少ない楽器で厚みあるリズムを形作るのが容易でないことは百も承知だった。だがそこにバンドアンサンブルの可能性をみたチャレンジでもあった。過去にないような表現をモノにしたいという意地もあった。

 時が経ち音楽の好みも微妙に変化する。鍵盤楽器の魔力が襲ってきた。マックス・ミドルトンの鍵盤を配した第2期ジェフ・ベック・グループはその一つだった。マックス・ミドルトンが奏でる“ロックバンドのエレピの音色”に僕の心は敏感に反応した。その時僕は明らかに鍵盤楽器を取り入れたバンドアンサンブルに魅せられた。同時にそれは3人というバンド形態へのこだわりが揺らいだ瞬間でもあった。

 そんな時再び出会ったギタリストのソロアルバム、それが鈴木茂の『Band Wagon』だ。時は90年代半ば。最初の出会いからは10年。アルバムがこの世に生を受けてから20年が経ったときようやく手にしたアルバムから聴こえてきた世界は圧倒的なバンドサウンドだった。

 壮絶で痛快。バンドアンサンブルの見本がここに凝縮していた。精緻を尽くした編集感覚ではなくフィジカルな一体感が際立つ音世界。演奏行為そのものが実に痛快に感じる存在感。楽器演奏という表現形態にこだわった彼ならではのアンサンブルのミラクルは、リッチー・ヘイワード(Dr)、ビル・ペイン(Key)のリトル・フィート勢、デイヴィッド・ガリバルディ(Dr)、ドン・グルーシン(Key)といった凄腕らのバックアップが大きく寄与した結晶となってどっしりと佇んでいる。

 その存在感は「はっぴいえんど」とは異なる個性だ。例えば“You are my sunshineでもないが きみは明るい100ワット電球さ”という表現に見て取れる日本的日常を切り取る視線は、日本のロックミュージックの象徴ともいえる語法であり欧米のロック文化との距離を感じるファンタジーのようにも映る。しかし演奏行為によるダイナミズムを表現するミュージシャンたちの素晴らしい技術と知恵と工夫によって、文字通り“多くを語らず”とも圧倒的なアンサンブルでその存在感を残した『Band Wagon』は、ロックという音楽における言葉の意味性がミュージシャンたちの現場レベルでどのような位置を占めていたのかという問いに一つの答えを提示したようにも思える。音と音との直球勝負。起点はすべてここにある。加えて持ち前のメロディ感覚やポップセンスも、演奏というフィジカルな行為で挑む意欲に拍車をかけたのだと思う。結果、遠慮がちに佇む松本隆による詞世界も立体的に交差する音の階層に仕掛けられた罠のように徐々に世界を膨らましていく。

 印象的なのは鍵盤楽器だ。ギタリストのソロアルバムで鍵盤がモノを言うという現実は一見皮肉的にも思えるが、裏を返すと、この形こそ鈴木茂が目指すバンドサウンドの骨格であったという見方もできる。ビル・ペインやドン・グルーシンらによるピアノやエレピがもたらした効果は絶大で、このアルバムの色彩を決定付ける大きなファクターとして機能している。装飾的意味会いもあるが、なにより複雑にシンコペイトするリズム楽器として音空間を縦横無尽に駆け巡る音色が圧巻だ。鈴木茂によるリズムギターとの絡み方、あるいはスライドギターによる流れるようなフレージングを支えるエレピの浮遊感覚も一体となって聴く者を刺激する。ところどころにホーンセクションやストリングスが効果的に挿入されるものの、アルバム中のほとんどを担うバンドサウンドの基本型がドラム、ベース、キーボード、ギター、そしてボーカルという5つのパートであることが、当時の鈴木茂のバンド観であると読み取れるのだ。女性バックコーラスを一切排除したアレンジもその思考の延長線上にあると深読みしたくなる。バンドサウンドのミラクルをシンプルな楽器演奏に求める表現者ならでは発想がここにみえる。鍵盤楽器の意味性を、ギターという楽器でアンサンブルを担う立場から経験的に知り尽くしていた鈴木茂なら当然のことだったのかもしれない。

 この後、鈴木茂は『Band Wagon』で得たダイナミズムを「ハックルバック」というバンドで紆余曲折の末、具現化する。ファンタジーは一つの完成をみたのだ。……Thank You For The Music。

 バンドサウンドとはなにか。その答えをまだ明確に出せずにいる。が、発売から30年を経ている『Band Wagon』を聴くと、答えはここにあるのだと言われているような気がしてならない。“路面電車は浮かんでいくよ 銀河へと”。僕はまたギターを手にとる。微熱少年が描いた世界に想いを馳せながら。


ウエヤマシュウジ
(初稿 2005.05.30 uebpage "Thank You for the Music")


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2012年02月22日

幻とは言わせない

Alice Clark / Akice Clark (1972)

AliceClark_ST_200.jpg

 アルバムジャケットの中面に3人のモノクロ写真がある。3人とは、本アルバムの主人公アリス・クラーク、オーケストレイションアレンジ担当のアーニー・ウィルキンス、そしてプロデューサーのボブ・シェッドだ。おそらくはレコーディングの途中の打ち合わせ風景なのだろう。うつむき加減に肩を並べ何やら考えている3人の様子を切り取ったその写真を、アルバムジャケット中面のほとんどのスペースに使用するという大胆なレイアウト。レコーディング風景の写真をアルバムジャケットに掲載することはよくあるが、その場合、参加したミュージシャンの写真の数々が彩られることが多い。しかし、ここには他の一切の写真はない。あるのは3人の写真のみ。そしてクレジットもその3人とジャケットデザイナー、エンジニアの名前などが表記されているだけで、参加したミュージシャンの名前は一切ない。

 アリスが唯一残した本アルバムは、今まで「幻の」という冠がつく極めてレアなソウルミュージック・アルバムとして知られていた。昨今のフリーソウル・ブームによって再評価を得て、CD化によって一気にその存在がブレイク。それで初めて耳にしたリスナーが相当数いるものと予想されるその音は、実にソウルフルでポップでジャジーでグルーヴ感に富み、みずみずしいばかりの躍動に満ちあふれている。きらめきを放つ彼女の歌はもちろんのこと、バックの引き締った演奏も見逃せない聴きどころ。ところがそのクレジットが一切記載されてない。一説によるとバーナード・パーディやゴードン・エドワーズ、コーネル・デュプリーといったニューヨークのセッションマンらが多数参加しているという噂だ。同時期にやはりニューヨーク勢をバックに配した、同じMainstream音源のEllerine Hardingのアルバム『Ellerine』がリリースされている点から推測するに、アリスの本アルバムも同じ構成によるセッションだとみるのが有力な説なのだ。

 アルバムジャケットに参加ミュージシャンが記載されていないケースは少なくない。バックの演奏が匿名的であるほうが、主人公であるアーティストをより際立たせることができるというアイデアだ。しかし、その場合でもプロデューサーやアレンジャーの名前くらいは記載されていることが多い。それは、アルバム制作の過程で彼らがそれだけ大きな位置を占めている証拠だが、アルバムジャケットに自らの写真だけを掲載するという例は珍しい。しかも本作ではその写真がかなりの面積を占有したレイアウト。アルバム制作の牽引役である彼らの存在にスポットを当てているという風にも解釈できるが、何か特別な匂いを感じてしまう。ただ、このMainstreamというレコードレーベルの作品の多くは本作と似たようなジャケットワークの傾向があり、クレジット表記を削除するケースも多いという事実は確かにある。この形式に従ったまで、といえばそれまでだが、問題はやはりこの写真だ。この写真がもたらすイメージは、ボブ・シェッドの特別な意志を直感してしまうのだ。

 ボブやアーニーのような牽引役は「アルバムを形作る」という現実では間違いなく必要な存在。アリスの「歌」を「作品」から「商品」へと化す機能を担う彼らは、彼女の「歌」こそがこのアルバムの価値全てだと考えたのかもしれない。音楽編集者としての彼らの器量と裁量は、惚れ込んだ歌の素晴らしさをアルバムという商品にバランス良く調和させるため、バックを務めるミュージシャンを一流どころで揃える。その上でミュージシャンたちの名前を徹底的に伏せ、代わりに自らを前面に出した。

 「3人の打ち合わせ風景写真」は、作品ができあがる過程の一部を切り取った「立ち入る事ができない聖域」のような印象がある。「alice clark」と記されたシンプルなジャケットワークは、余計なものを排除するミニマムな美的感覚の効果も生んだ。音楽そのものとは直接関係のない一つ一つのことが全体としてアルバムの価値を高める策として機能しているようにも見える。バックミュージシャンのブランドに頼らないという匿名性の効果も、リスナーの想像力を掻き立て、彼女の歌やその戦略を形作った「彼ら」の仕事をより際立たせた。「彼らがこのアルバムを作った」という主張を惜し気もなく披露する大胆さは、「たまにはオレたちが登場しても良いだろう。音楽が素晴らしいのは聴けばわかるんだから」という、その行為が彼女の歌のクオリティを損ねてしまうことなど絶対にないという確信的主張の裏返しのようにも見える。

 このようなことを、アリス本人はあまり気にしてなかったはず。彼女はそれがどのような結果になろうとも知らなかったし、全く問題ではなかった。「もっと気の利いたタイトルはなかったのかしら」などと、出来上がったジャケットを眺め、軽く笑みをこぼしながら、自ら針を落とす光景が目に浮かぶ。アルバムから聴こえてくるソウルフィーリングには、「タイトルなんてなんでもいいのよ」と問いかける自由奔放な力強さと繊細さがある。

 シンプルな構成とアートワーク。言葉ではなくアルバムジャケットにさらりと表現した彼女への彼ら流の賛辞。そこに込められた想いが、本作ただ一作で終わってしまったことの善し悪しはともかく、この一作で完結していることによる美しさが、ただならぬ形で凝縮している名盤。歌とそれを支えるバックミュージシャンによって生み出されているという事実の他に、まとめあげた「彼ら」の存在を感じずにはいられないアルバムなのである。……Thank You For The Music。

 「幻の名盤」とは良く言ったもの。しかし決して「幻」ではない。表現される歌や演奏はもちろんのこと、何よりアルバムを彩る「彼ら」の仕事ぶりがそこかしこから実感できるのだ。その象徴が「3人の打ち合わせ風景写真」の起用だとするならば、その功績はリアルなものとして浮かび挙がってくる。決して幻とは言わせない。


ウエヤマシュウジ
(初稿 2002.03.28 uebpage "Thank You for the Music")


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2012年02月21日

全ては処女航海に

Bad Company / Bad Company (1974)

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 決して大長編ではなく、かといって短編でもない、厚さにすると300ページ程度の文庫本。おそらくは文庫本業界における最も文庫本らしい文庫本像を象徴すると思われる「適正サイズ」の文庫本といったものがあるように、本アルバムはロック界における適正サイズを誇る、実にロックらしい肌触りのロックアルバムだ。とにかくこのアルバムは全てにおいてロックなのだ。ロックの持つイメージ。それを最大限に集約し、ロックという虚像と実像を抽出し形成し得た数少ないアルバムなのだ。おいおい、そんな大袈裟なものなのかよ、という声が聞こえてきそうだが、たまには誇張してみてもいいでしょ。ここでいう「ロック」とは、精神的にも肉体的にも様式的にも、多くのリスナーが抱くであろう固有の「イメージ」の話だ。ここで提示される結晶のように凝縮されたロックのイメージとは、それそのものが一つの個性として輝いているものなのだ。

 バッド・カンパニー。日本語訳すると「悪役商会」。はい違います。いや実は半分本気でそう考えていた。海の向こうのロックバンドはさすがに大胆なセンスだなと勝手に思い込んでいた時期もあったのだ(冗談です)。その大胆な発想の主役たちは4人。元フリーのポール・ロジャース(Vo)とサイモン・カーク(Dr)に、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフス(G)、そしてキング・クリムゾンのボーカルをつとめたボズ・バレル(B)。そう、バッド・カンパニーはブリティッシュロックの輝かしい遍歴を持つ4人によるスーパーバンドとして華々しくデビューを飾った。しかし、このスーパーバンドによって提示されたシンプルすぎるロックの数々は、当時のリスナーには良くも悪くも予想を裏切られる結果に映ったはずだ。メンバーのバンド遍歴のイメージによる期待感が膨らんだ結果でもある。

 バンド遍歴のからくる期待感。例えば、バッド・カンパニーというと避けて通れないのがフリーである。フリーの延長線上にバッド・カンパニーを位置付ける人も多い。あるいはバッド・カンパニーの前身はフリーである、と捉える流れだ。だがそれは大きな誤解である。ポイントは、フリーというバンドはにはバンドカラーやサウンドを決定付ける大きな要素が少なくとも2つあったということ。ポール・コゾフのギターとアンディ・フレイザーのベースがそれだ。この2つの要素を欠くバンドに、フリーの影響を感じ得ることはない。むしろバンド全体のメインアクトとして機能するポール・ロジャースの存在のほうが大きく関与しており、そこへもって同じ釜の飯を食ったサイモン・カークもくっついてきたために、イメージ的には一見するとフリーのそれと近いものを感じ得てしまうというのが正直なところだろう。実際、それはその通りだと思えるが、このバッド・カンパニーがフリーと異なるベクトルを持つ理由は別の次元のように思えてならない。そのことこそがバッドカンパニーというバンドの特徴的側面であり、このアルバムが名盤の名を欲しいままにする理由なのではないか。

 1曲目「Can't Get Enough」からして名曲。このバンド最大にして最高のヒットとなるこの曲は、アルバム1曲目を飾るに相応しい明快なメロディが、一見脳天気なシャッフルのリズムと合わさることで、最大限のポップフィーリングとヒット性を生み出した顕著な例だ。楽曲単体としてのオーラを放ちどっしり君臨する王道的展開。ミック・ラルフスのギターがまるで歌を奏でるようなメロディアスなフレーズで食い込んでくる。ここにあるのはポール・コゾフがフリーで表現した手法とは180度異なる世界だ。意図的に自らの感情を抑制し、楽曲として存在価値のあるものを作ろうとするミックのギタープレイは、この時代にギタリストに課せられた役割とは逆行する全く別の個性を感じさせる。その余韻が消えぬまま、跳ねながらタメの効いたベースとドラムが印象的な2曲目「Rock Steady」に突入する。ここでのポール・ロジャースはロックフィーリングに溢れた実に素晴らしいシャウトを聴かせる。リズムのずれをアクセントとしたルーズでシャープなカッティングを聴かせるイントロのアイデアをアルバム2曲目に配置したのも全く持ってニクい演出だ。続く3曲目。ミック・ラルフスの華麗ながらも哀しげなピアノで幕を開ける「Ready For Love」が流れる。スローテンポながらアグレッシブなボズ・バレルのベース。ポールのメリハリに富んだ強弱のあるボーカルとミックの奏でる静かながらも力強いピアノの調べ。それを支える重厚かつ王道的なサイモンのドラム。バンドの持つポテンシャルがここで一気に開花したかのような印象を受けるこの曲こそ、バッド・カンパニーというバンドのカラーを最大限に表現した歴史に残る名曲だ。そんな名曲中の名曲がミック・ラルフスのソングライティングであるという点も、このバンドがフリーとは決定的に趣きを異にするバンドであることを物語っている。続く4曲目「Don't Let Me Down」では、途中メル・コリンズのサックスが突如として奏でられ、すぐさまツボを押さえたミックのギターソロが流れてくるあたりが構成力の勝利といったところだ。壮大なスケールを感じさせるこの曲をもってA面は幕を下ろすのである。そう、本アルバムはアナログレコード時代のA面、B面という形式がもたらす、もっともバランスのとれた曲構成を実現しているという点においても、全くもって名盤なのだ。A面を聴き終えた後に残るなんとも表現し難い爽快感。このアルバムを聴く度に感じる不思議な感覚が、自然とレコードをB面へと向かわせる。

 そしてB面1曲目「Bad Company」。バンド名と同じ、そしてアルバム名とも同じタイトルをつけたこのセンスにまず脱帽する。アルバムという衣をまといながら、その衣を編み出したのは衣そのものであるという実に不可思議な印象をもたらす演出。この辺りにアルバム全体を一つの作品として創り出そうとする意思が見えてくる。彼らは単にリアルな音像としてのロックではなく、記録としても記憶としても永遠に残る作品としてのロックを描いた。続く「The Way I Choose」は印象度の低い楽曲だが、ここまでの楽曲の構成とこの曲の持つナチュラルさは聴く者に落ち着きと安堵感をもたらしている。そして突然聴こえてくる16ビートを刻むハイハットとスタッカートの効いたベース音。このイントロだけで三杯は飯が食える「Movin' On」だ。ボーカルパートは完全な8ビートであるにも関わらず、このイントロのおかげで体が存在しないウラの拍子を小刻みに感じとってしまう絶妙のアレンジ。途中繰り広げられるミック・ラルフスのワウペダルを多用したギターソロや、ボズ・バレルのトリッキーなベースプレイも「大したことはやってない」のだが、なぜか実に印象的なのだ。そう「特別なプレイ」は何一つない。にもかかわらず各パートの音が際立ち、強い存在感と印象をもたらす。なぜか。それを解く鍵は、このアルバムが「ロック」という世界の持つダイナミズムや即興性あるいはライブ感覚といった要素を提示しながらも、同時にポピュラーミュージックの大衆性や普遍性を軽く実現するという、相反する2つのベクトルが共存している点にある。むしろバッド・カンパニーというバンドの立脚点は後者にあった。幾多のロックバンドがなし得なかった大衆性を勝ち取ることで、彼らはメジャーシーンで一躍スターダムにのし上がった。そこに見え隠れする確信犯的ともいえる強い意図と意志。それは決してフリーの幻影によるものではなかったはずだ。

 アルバムラストを飾る「Seagull」は、ポール・ロジャースによるギターの弾き語りである。ここで聴ける静かな佇まいは、強く明快に残るメロディとは逆の、それまで持続し続けていた熱を一気に冷却し麻痺させるリフレインが印象的に響く。こうして、本アルバムは静かに幕を閉じるのである。

 バッド・カンパニーはこの後なんと10年間活動を続けていく。しかし、本アルバムを超える作品を彼らはついに作り出すことはできなかった。スター選手が揃った世紀のハードロックバンドは、その前身となるそれぞれの所属したバンドの偉大さを引き連れての船出だったはずだが、結果的には見事にその期待を裏切り、彼らならではの、彼らでしか創り得ない音世界を描いてみせた。本アルバムでの彼らの処女航海はシンプルながらもロックの全体像を表現してしまった。それ以上のものはもはや必要ない。極論だが言い切ってしまおう。このアルバムを聴かずともロックを語り体験することはできる。がしかし、これ一枚を聴けば、ロックの全てをわかり得るというのもまた真なのだ。おそらくリスナーの多くが直感した。この適正サイズのアルバム一枚をもって、彼らの世界は彼らの世界として完結したのだということを。ロックという世界の様々なイメージを見事に表現しきったのだということを。……Thank You For the Music。


ウエヤマシュウジ
(初稿 2001.09.26 uebpage "Thank You for the Music")


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